ベトナム戦争と平和・歴史の旅
12月24日(3日目)
夜逃げや本舗 Ho-Chi-Minhここはホテルのロビー、午前五時(日本時間午前3時)。あたりはまだ真っ暗。昼間の賑わいがうそのように、道路はホンダも自転車も人もほとんどなく、まだひっそりしている。ロビーにもフロントの人と私たちだけで、何でこんな時間にロビーにいるかと言うと、別にホテル代を踏み倒して夜逃げしようとしているわけでもなく、ただわかっているのは6時30分の飛行機に乗ろうとしていること。誰が考えたんだこんなスケジュール。というわけで、早朝6時30分の国内線でダナンへ向かいます。バスだったらもう少しゆっくりできるんでしょうが、飛行機ではどうしようもないですね。ただ、ちょっと楽しみな事があって、昨夜ガイドのクンさんから「明日は朝早いので、ホテルがお当を用意してくれる」と聞かされていた。ベトナムのお弁当初体験と渡されたのが、クリスマスケーキでも入ってそうな大きな箱。そう言えば今日はクリスマス。ホテルもクリスマス用のお弁当を用意してくれたんだなあと期待してみんなでオープン。一同ガックリ!。バイキングで出されるパン3個、ジャム2ヶ、リンゴ1個。みんな半分呆れ顔で、早速中身を取り出して、箱はフロントに突き返してやった。こんなもん持って飛行機に乗れるか!!朝食代返せ!!
タン・ソン・ニャット空港午前6時30分発ダナン行きベトナム航空320便に搭乗。早朝にもかかわらずほぼ満席状態で、ほとんど海外旅行の外国人のようで日本人もちらほら。ダナンまでは550Km、約1時間10分。ダナンに近づくにつれ雲行きが怪しくなっていく。飛行機の下は分厚そうな灰色の雲がみえる。ベトナムはなんとなく暖かいイメージあったのだが、旅行直前、インターネットで気象情報を調べてみると意外と寒そうなのでびっくり。北部に位置するハノイなんかは、最低気温が4〜5度くらいと日本とあんまり変わらないぐらいで、日中は15〜18度ぐらいまで上がるみたいだ。夜昼の気温差がずいぶん大きいらしい。
ダナン空港到着。飛行機を降りて最初にしたことは、コートを着ること。天気は雨で予想以上に寒かった。でも空港はあいにくも天候にもかかわらず、大勢の出迎えの人。ガイドのクンさんはダナンに実家があるらしく、ご両親が出迎えに見えていた。私たちも一緒にご挨拶をして、送迎バスに向かった、が、一同びっくり。50人乗りの大型バス(韓国製)でしかも、運転手さんと添乗員付のビップ待遇。もう一度言っておきますが、私たちのツア−はガイドのクンさんも入れて8人です。50人乗りのバスに申し訳なさそうに8人乗り込んで、今日の目的地ソンミ記念館に向かった。ダナンからソンミ村までは、国道1号線を南下、クワンガイを経由して60Km程度。国道1号線と言っても日本の国道とは大違い。一応舗装はしてあるもののでこぼこだらけで、センターラインもあったと思うが車は中央を走って、対向車がくれば右により、遅い車がいればクラクションを鳴らして一気に追い越す。信号はまったくないので、トイレ休憩以外はノンストップ状態で、大型バスでよかったかなあ。途中、民家でトイレ休憩。ベトナムの民家のトイレはどんなものかと入ってみると、個室だが便器もなにもなく右下隅に外につながる小さな穴があるだけだった。 バスは国道1号線を外れ、さらに田舎町に進む。どこへいっても民家のあるところには人の姿があった。
ソンミ記念館 ソンミ記念館
1968年3月16日アメリカ軍のヘリが突如着陸し、504人の村人が犠牲になった地。記念館の他、住居跡、慰霊碑、防空壕などがある。
ガイドブックには載っていない。
「地球の歩き方・ベトナム」’02〜’03
P327にソンミ記念館の記事あり(2002、11、10)ソンミ村ソンミ記念館到着。どこにでもあるのどかな農村の風景である。記念館のツーさんという女性にガイドをしてもらい場内を見学する。
1968年3月16日、アメリカ軍による虐殺事件が起こった。ソンミ村村民504人が犠牲になった現場だ。大きな門をくぐると、左手には記念館の建物。そのすぐ近くには、弾痕が残る木がそのまま残っている。右手には住居があったという場所。さらに奥に行くと、1982年、生き残った一人が立てたという記念像がある。村民のうち10人ほどが、最後までこの作戦に反対をしたアメリカ兵によって助けられ、生き残ったという。その像の右手には、そこで犠牲になった家族の名前が刻まれた碑が建っている。女性(42歳)、女性(10歳)、女性(8歳)、女性(6歳)、男性(4歳)亡くなった。食事中の家族団欒の ひと時であったらしい。防空壕では7人が食中、一人ずつ外に出されて殺された。遺体の口の中には、まだご飯 が残っていたという。さらに右奥には、170人が殺された濠がそのまま残っている。ここでは4人が生き残った。負 傷しながらも、米軍が去ったあと遺体を埋葬した。
最終的に4時間で504人が虐殺され、247軒の民家が焼き払われた。24族は子孫も残ってはいない。ソンミとい う地名は、フランス植民地時代につけられたもので、4つの村からなり、米軍はミライ1、ミライ2、ミライ3、ミライ4と 名づけていたそうだ。韓国の提岩里事件も静かな農村で起こっいる。静かでのどかな雰囲気が、事件をいっそう 悲惨なものにしているのではないだろうか。
ソンミ記念館・スケッチ
一家全滅の碑 ここでは母と4人の子どもが亡くなった。 |
ソンミ記念館 正面入り口の大きな門 |
504名の碑 亡くなった504名の名前を刻んだプレート |
左右に走る濠で170人が亡くなった | 弾痕の残る木 | 記念像 |
ホイアン〜180年前にタイムスリップ〜 |
ソンミ記念館を後にして、ジャコック川沿いのホテルのレストランで昼食をとる。ホテルの中庭ではクリスマスパーティーの準備をする人たち。食事を済ませ、次の見学地ホイアンの町へ向かった。 ホイアンはダナンから南東へ約30Kmのトゥボン川の河口に位置し、東西交易の港として栄えた街。古い町並みが残り、とっても情緒がある。駐車場でバスを降り、シクロに乗り換え。料金5000ドン(日本円約50円)。街は地元の人たちと観光客でとてもにぎわっている。狭い通りにフランス植民地時代の建物やみやげ物や、そんな通りでは子どもたちが裸足でサッカーをする姿が。また路上では、クリスマスグッツを売る地元の人たち。なんてのんびりした街なんだろう。本当に200年ぐらい前にタイムスリップしたかのように、時間が止まったような錯覚にとらわれるほどの静かな雰囲気が漂う。 |
来遠橋(日本橋) 16世紀に造られた、日本人街と 中国人街を結ぶ屋根つき橋。 |
サッカーをする少年たち 日本橋の近くにて |
日本橋からトゥボン川を眺める シクロは私たちが乗ってきたもの |
笛を売る親子 日本橋の近くにて |
凍死寸前・ フーザンホテルお湯がでない!!! |
夕方5時、ホイアンを後にした。1時間ほどしか時間がなかったのが残念だ。シクロもよかったが、ゆっくり自分の足で街を歩いてみたかった。時間があればここで1泊するのもいいかもしれない。この後、延々とバスの旅は続き、国道1号線を北上。今日の宿泊地はフエまでは約130Kmの行程。朝、飛行機で降り立ったダナンの街を過ぎ、ハイバン峠にさしかかる。日は暮れ、あたりは真っ暗。急勾配が続く。ここまで来ると交通量もかなり減ってきた。道路はと言うと、相変わらずでこぼこで、水は噴出しているは、がけ崩れはあるはで大変(運転手さんは)。私たちは、遠くに見えるダナンの夜景を楽しんだ。昼間はさらに景色がよいみたいだが、断崖絶壁で恐怖の方が先立つみたいだ。峠を越え、下り坂になる。しばらくすると民家が見えてきた。何もないところだが、クリスマスのミサに出かける人たちで人通りは多い。教会はたくさんの人でにぎわっていた。フエまではまだかなりあると言うことで、道路沿いの小さな商店(食堂?)でトイレ休憩をとる。私たち以外にお客さんもなくひっそりしている。おみやげ物もおいてあり、昼間は結構観光客でにぎわうのかもしれない。お茶とお菓子をいただいた。店の主人は一杯やっているらしく、メリークリスマスの連発。タツノオトシゴの入ったお酒を飲めと進めてくれた。さあ、出発と言うところでバスのタイヤがパンクのハプニング。でも、15分そこそこで修理は終わり、再びフエに向かって出発をした。結局、フエに着いたのは10時前。ホテルに入る前に、今日の夕食は宮廷料理。なにやら少し怪しげな建物に入る。こんな遅い時間にもかかわらず、ベトナムの民族楽器の演奏と歌でおもてなし。演奏者の皆さん、私たちのためにこんな遅くまでご苦労さんでした(演奏が終わると、すぐに着替えて帰ってしまった)。11時前ぐらいにやっとホテルにチェックイン。フーザンホテルでフーン川沿いの老舗の国営ホテル。ラウンジではクリスマスパーティーの真っ最中。そんな賑わいを横目に、長距離バス旅行で疲れた私たちは部屋に直行。それにしても寒い。シャワーを浴びて早く休もうと思いきや、お湯が出ない、毛布もない。なんてホテルだ。毛布はしばらくして解決したが、結局お湯は出なかった。冷房はあっても暖房はなし、凍死寸前、最低!!。次の日、死んでるかも?! |
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