ベトナム戦争と平和・歴史の旅

12月23日(2日目) 
                                                          改2023.07.19
枯葉剤の悲劇・ツーズー病院へ
ツーズー病院産婦人科病院
・ベット数910台1000人以上の入院
(100人以上は仮説ベット)
・スタッフ1400人(契約も含め、80%は女性)
・外来患者毎日約1000人

 ホーチミン2日目。7時に起床バイキングの朝食の後、いよいよ本来の目的である、ベトナム戦争最初の視察地「ツーズー病院」へ。朝の通勤ラッシュ時間は過ぎているものの、相変わらず道路はホンダと自転車とクルマの洪水。少数派の車は、日本車、韓国車、ロシア車・・・。日本車の中には、「○○○消防署」「ワンマンバス」「自動扉」と、一昔前のクルマが今も現役で頑張っている。そうこうしているうちに私たちのマイクロバスは15分ぐらいでツーズー病院へ。街の中心部、ホンダや自転車だけでなく病院への入り口は人でごったがえしている。バスは門をくぐり、病院の敷地内へ。中庭では、衣類を広げ商売をする人も。バスを降り右奥の建物へ。


ツーズー病院レポート 
私たちは病院1階の会議室に通された。少し緊張気味。しばらくして、病院側から副院長さん、事務長さんの2人がみえた。
10数年前にベトちゃんドクちゃんのことが日本でも有名になったが、今現在も2人はこの病院で生活をしている。ベット数900といい、予想していたよりもはるかに大きい。私たちは通訳を介しながら、ベトナム戦争における枯葉剤の影響についての説明を受けた。
 現在も病院は、枯葉剤・ダイオキシンの影響について研究を進めているという。国際交流(日本とも交流)もしているが、すべて非政府組織との交流で、一緒に研究というまでには至っていないそうだ。1日に100人〜130人の子どもが産まれている。産まれる子どもの1.7%が奇形児(1998年は28216人の子どもが産まれ、内331人が奇形児)であり、1,7%のうちの40%は産まれるがそれ以外は死亡するという。奇形の原因はほとんどベトナム戦争の影響であり、最近また増加する傾向にあるらし。また、奇形児を産む可能性のある女性は1.51%とのこと。予想していたより厳しい現実である。病院から資料をもらうが、英語とベトナム語でよくわからなく、何度も質問を繰り返した。枯葉剤の現状の説明が終わり、話はベトちゃんドクちゃんの話題へ。彼らはもう18歳になるそうだ。ドクちゃんは毎日看護婦さんに送ってもらい、学校に通っているらしい。この日も午前中だったので、登校しているそうだ。11時頃には帰ってくるらしと話してみえたが、結局会うことはできなかった。ベトちゃんの方は病室で生活をしているそうだ。(後に病室で対面することになる)。
1時間ほど説明を受けた後、事務長さんが私たちを病室へ案内をしてくれた。エレベーターに乗り込むとドクちゃんがいつも乗っているという自転車が1台。病室は小さなベットがいくつも並び、生まれて間もない子どもたちがそこで過ごしている。また、別の病室では3、4歳ぐらいの子どもたちが元気に走り回っている。私たちがドアの近くに行くと、すぐに寄ってきた。しきりに手を出して握手を求めてくる。両腕がない女の子、手が変形している男の子、「障害」があっても部屋には笑顔が耐えなかった。その隣の病室には、ベトちゃんが看護婦さんに抱かれながら私たちの前に姿を見せてくれた。元気そうかどうかはよくわからなかったが、しっかりした体つきである。

 病室を後にした私たちは、別の棟に向かった。途中には子どもたちの写真が掲示板のように貼られているコーナーがある。2階の鍵のかかった部屋に入る。100か200ぐらいあろうか。ビンに入ったホルマリン漬けになった胎児の標本である。まるで何か商品でも陳列してあるかのように、整然と並べられている。怖くて近くには寄れなかったが、ひとつ印象に残った標本があった。胎児にならなかったという標本だ。説明を聞かなければ何の標本かはわからない。ベトナム戦争、枯葉剤の恐ろしさを感じずにはいられなかった。
ツーズー病院を後にした私たちは、統一会堂(旧大統領官邸)、戦争証跡博物館に向かった。


病室内

ドクちゃんの自転車

ベトちゃん
廊下の掲示板



南ベトナム政権時代の宮殿
統一会堂(トング・ニャット宮殿)
1975年4月30日、解放軍の戦車が無血入城を果たし戦争が終結するまで、大統領家族が住んでいた豪邸。
現在は、国賓を迎えたりするときになどに使用されている。
写真は、宮殿から噴水台、レ・ユアン通りを望む。
入場料US$4.。

 これがかって大統領家族の住宅だっのだろうか。住宅と言うより、博物館か美術館が当てはまりそうな大きな建物。全景を写真に撮ろうと思ったが、納まりきらないほど。建物前のおおきな芝生は中央に噴水がありきれいに整備されている。門をくぐるとすぐ右手には1975年4月30日に解放軍が無血入城を果たしたときの戦車が展示されている。この日、アメリカ兵たちは慌てふためき、脱ぎ捨てた軍装、軍用品で道路が埋め尽くされたと言う。建物内部は大理石のロビー、応接間、会議室の他、執務室、娯楽室、寝室に映画シアターまでが設置されていた。




戦争下で起きた残虐行為
戦争証跡博物館
ベトナム戦争当時の残虐行為の写真や、実際に使用された爆弾や戦車などが展示されている。少し前までは、「アメリカと中国の戦争犯罪の展示館」という名称たったが、ここを訪れるアメリカ人に配慮してか、現在の名称になったらしい。
写真は、ソンミ虐殺事件の展示コーナーで、ガイドのクンさんの説明に聞き入る参加者。
入場料10000ドン。日本語パンフレットあり。

 ちょうどこの旅行の1週間ほど前、テレビで日本人カメラマン故・沢田教一のドラマが放送されていた。ベトナムに関する知識のない私にとっては、ベトナム戦争が描かれているこのドラマは少しは参考になった。戦争証跡博物館はそのとき、財前直美が今のベトナムという場面で紹介されていた。ここは、パッケージツアーの観光コースにはよく入っているようだ。市街地にあり、観光客も多い。日本人も何人か見かけた。中庭には、ベトナム戦争で使用された爆弾や戦車などが整然と並べられている。入り口付近にはみやげ物屋。館内に入ると、ソンミ村での虐殺事件の写真が目に飛び込んできた。私たちはガイドのクンさんの説明を熱心に聞きながら、ベトナム戦争のあまりにも悲惨な現実を突きつけられることになった。写真展示の他に、ツーズー病院にもあったホルマリン漬けの胎児の標本、遺品、などが並べられてあった。11時30分頃ベルがなる。職員のの昼休みらしい。この間は展示室は閉鎖される。日本では絶対にないね、こんなこと。




戦争体験者との昼食会
戦争体験者との昼食会
ホテル・オムニサイゴンにて
退役軍人協会のタムさん(70歳)と、シンさん(60歳)とともにテーブルを囲んで交流会

 この後、私たちを乗せたバスはホテル・オムニ・サイゴンへ向かった。白を基調とした清潔感のあふれるここも最高級のホテルだ。ここで2人のベトナム人と昼食を共にした。




生手術とクチトンネル
クチトンネル
ベトナム戦争で最も戦火の激しかった地域。枯葉剤や空爆から身を守り、ゲリラ戦を戦うために掘られた総延長250Kmのトンネル。近隣の多くの村と行き来ができた

 ホテルを後にした私たちは、ホーチミンから約70Kmの距離にあるクチトンネルに向かった。クチトンネルは観光地として随分有名であるしい。日本からの観光ツアーには、コースによく含まれている。ホーチミンの市街を抜けると田園地帯が広がる。一見すれば日本の農村風景にも見える。道路事情はあまりよくはない。2時間ほどで到着。

クチトンネルレポート
 まず、トンネルの事務所でトンネルの説明を受けた後、道路を隔てた反対側にある林の中に案内をされた。小さな建物の中には落とし穴の仕掛けや罠、地雷などが展示されている。先客がいたためそこは後で案内と言うことで、さらに奥に進む。歩道沿いの枯れ葉が積もる場所にトンネルの入り口がある。言われなければ絶対にその存在には気が付かない。小柄な女性がやっと入れるぐらいの小さな出入り口である(上の写真)。観光用の実際に入れるトンネルの入り口は別のところにある。腰をかがめてやっと人一人が通れる狭さ(閉所恐怖症の人は絶対ダメ!)。しかも、湿度が高くて蒸し暑い。トンネルの途中は当然真っ暗で(途中照明はある)前を行く人の声が手がかり。アップダウンもあり、かなりきつい。大柄なアメリカ兵が入ってこれなかったというのがよくわかる。汗だくになりながら二つのトンネルにもぐった。出口付近の台所だったところではタロイモとお茶のサービスがある。この他にも半地下状態の会議室、クンさんいわく生手術が行われたと言う病室なども保存されている。当時の過酷な生活は想像以上だ。林の出口付近ではたくさんみやげ物を売っていた。ガイドブックとミネラルウォーターを購入。

トンネル事務所 放置された戦車の残骸 トンネルに入る トンネル内部

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